桃の木が一番多い場所
「日本では花といえば桜だが、中国で花といえば桃だ」
かつてそう言ったのは、私(吉池太一)が通っていた高校の漢文の先生だった。
確かに、中国に関連する本を読んでいると、桃の話がよく出てくる。理想の土地は「桃源郷」だし、「三国志」の「桃園の契り」はあまりに有名。李白にも桃の花を高らかに詠んだ漢詩が多い。
桜の下での花見が続いたあと、今度は桃の下で花見がしたくなった。桃といえば山梨。調べてみると、桃の木が一番多い場所には石和温泉駅からタクシーで行けばいい、ということがわかった。
そこで、いかにも春らしい日に私は中央本線に乗って石和温泉駅に行った。
バスの車窓から見えるすばらしい景観
駅前に立つと、いきなりピンクの花を車体全体にペイントしたマイクロバスが目についた。近づいていって運転手さんに尋ねた。
「このバスは桃の眺めがいいところに行くんですか」
「行きますけど、桃を見たいだけなの?」
「まあ、そうです」
「それじゃ、乗せられませんよ。このバスは温泉客を乗せるためのものだから」
そう言われて車体のドアのあたり見ると、三つの温泉の名前が書かれてあった。各温泉を巡回している送迎バスだという。その一つが「ももの里温泉」となっている。
「三つの温泉中で、桃の眺めが一番いいのは?」
「やっぱり、『ももの里温泉』かな」
運転手さんがそう言うので、「その温泉に入ります」と即断してバスに乗った。
バスは国道20号を過ぎ、笛吹川を渡り、桃の木が数多くある一帯に入っていった。花は満開である。バスの車窓から鮮やかなピンクの群生が見えてすばらしい景観だった。
都会では絶対に味わえない素朴な贅沢さ
そんな風景の中に「御坂(みさか)」という地名の看板がやたら見えるようになった。
しかも、丘に向かってバスが走る道になんとなく見覚えがあった。
ふと思い出したことがあった。20年近く前になるが、当時の御坂町の桃栽培農家を取材したことがあったのだ。
「そうか、このあたりに一度来ているのか」
一度、記憶の糸口を見つけると、次々と思い出すことがあった。そのとき、桃栽培農家の年配の方にこう尋ねられた。
「『おかぼ』って知ってる?」
知らなかったので率直に私がそう言うと、男性が教えてくれた。
「陸稲(りくとう)のことだよ。ここらは標高が高いから水田にできないので、仕方なくおかぼを作っていた。でも、たいした米にならないから生活は苦しい。必死の思いで始めたのが桃の栽培だったんだ」
そんな話を聞きながら、昼食をご馳走してもらったのも良き思い出だ。そのときに食べた山芋の旨さときたら、都会では絶対に味わえない素朴な贅沢さだった。
今、美しく咲き誇る桃畑を見ながら、ここまで桃の木を育てあげた人々の心情を察する。春になると見事な花を咲かせる桃も、良質の米が作れない農家が苦肉の策で植えたものだった。
ももの里温泉でぬるぬるする湯に長い間つかったあと、満開の桃の木の下でビールや山梨のワインを飲んだ。見渡すかぎりピンクに染まった桃畑が広がっている。本当に気分がいい春の一日だった。
文・写真=吉池太一(旅行ライター)



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