今や東京随一の名所になった浅草寺!雷門から本堂までの見どころをさぐる

コラム

雷門を造った恩人

雷門の前に立つ。大きな提灯がぶら下がり、その下に大勢の人が群がっている。浅草で育った私(康熙奉)にとっては見慣れた光景だが、この雷門という名前に反して、門がない時期が百年続いたとは到底思えなかった。

実は慶長年間に雷門は焼失し、その後はずっと門がない状態だった。昭和35年、松下幸之助氏の寄進によって、今目の前にある門ができたという。「経営の神様」はどのくらいのポケットマネーを出したのか。本当にありがたい話だ。

門の前にしばらく立っていると、観光用の人力車を引く人たちが手持ち無沙汰でたむろしていた。そうかと思えば、通りを行くカップルに「だまされたと思って乗ってみませんか」と声をかけていた。誰もだまされたくないと思うが……。

仲見世がとても賑わっていた

年間3千万人の参拝客が訪れるという浅草寺。雷門をくぐると仲見世通りとなり、参道の両脇に間口が狭い店がズラリと続く。羊羹、江戸小物、バッグ、人形焼、団子、草履、煎餅、雑貨、豆菓子など、売り物は様々だ。

それぞれの店の前で、観光客が足を止めている。特に、外国から来た人にとっては、見るものすべてが興味深い。まさに「ナカミセ・イン・ワンダーランド」なのだ。

もともと、仲見世は浅草寺の支院が立ち並んでいる通りだった。1700年前後、浅草寺の境内を掃除していた人たちへのお礼として、支院の軒先に小さな店を出すことが許された。以来、それぞれの店は看板娘を店頭に配して参拝客を引き留めた。その光景は今も変わらない。看板娘は奥に引っ込んでしまったが……。

大勢の観光客を相手にできるという恩恵ははかりしれない。仲見世の店は、掃除好きな先祖に大いに感謝すべきだろう。

そんなことを思いながら私は歩いていき、新仲見世通り、伝法院通りを次々に横切る。たどり着いたのは宝蔵門。鉄筋コンクリートで造られた重層の楼門だ。従えている仁王像は、左が「阿形(あぎょう)」、右が「吽形(うんぎょう)」。そばにいた男性が連れの女性に「阿吽(あうん)の呼吸と言うだろ。二つの仁王像の息が合っていることからできた言葉だよ」と言っていた。

浅草寺の名を広めたのは誰か

宝蔵門をくぐると、目の前に本堂が見えてくる。本堂の前には大きな焼香台がある。参拝客が置いた線香からモウモウと煙が立ち込めている。そこに人々が群がって、煙を手元に呼び寄せて気になる部位にかけている。頭だったり、肩だったり、胸だったり。煙をかけるとその部位が良くなるという言い伝えがあるからだ。

この浅草寺の名を広めたのが、実は徳川家康だった。豊臣秀吉が権勢をふるった時代、関東に移封された徳川家康は江戸に入府すると、江戸城の鬼門にあたる浅草寺を祈願所に指定し、寺領5百石を与えて保護した。

さらに、慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の前、家康は勝利を浅草寺で祈念している。その願いが成就して、浅草寺は全国の武将から信任を得た。以後、浅草寺の名は全国に轟いた。

それは今も変わらない。大勢の参拝客がひっきりなしに本堂の中に入っていく。

本尊は観世音菩薩。「願えばご利益がある」という観音信仰。このわかりやすさが、多くの老若男女を集める。ただし、観世音菩薩は絶対秘仏で参拝客は誰も見られない。縁起は伝わっていても、肝心の本尊は闇の中だ。

「一番大切なものは目に見えない」

私はそう納得するしかない。

文・写真=康 熙奉(カン ヒボン/作家および韓流ジャーナリスト)